Artist & Product profile

Enzo Mari エンツォ・マーリ 1932-

1932年イタリア・ミラノ生まれ。イタリアを代表するプロダクトデザイナー。ブレラ美術学校を卒業後、ブルーノ・ムナーリ(Bruno Munari)の紹介でDANESEでプロダクトデザインを手がけるようになる。マスタバ(Mastaba)、コレオーニ(Colleoni)、ランペドゥーサ(Lampedusa)などを制作。1967年と1979年、1992年にコンパッソ・ドーロ賞(『金のコンパス賞』、リナシェンテ百貨店のちにADIが主催するデザイン賞)を受賞しています。2005年のミラノ・サローネにおいて、HIDAを発表。ミラノ工科大学をはじめ、多くの大学で教鞭をとる。現在もミラノにスタジオをかまえ製作活動を続けています。芸術における視覚心理学や知覚の構造の研究など、緻密な分析に基づいたアプローチから導き出される、必要善から生まれる美しさがマーリの作品を特徴づけています。また、厳格な芸術家にして哲学者であるマーリは、その作品で素材のもつ特性やそれを制作する職人の仕事のもつ意味を探求し続けています。ドリアデ、ザノッタ、カルテル、マジス、ダネーゼ、アレッシィ等、トップブランドの作品を数多く手がけ、作品は1600点を超える。そのうち29点はニューヨーク近代美術館の永久所蔵品に選ばれています。

 

SEI SIMBOLI SINSEMANTICI design by ENZO MARI, 1972 (re-edition 2013)

1972年にデザインされた「システマチックシンボル」のグラフィックシリーズがついに復刻されました!
基本的なコンセプトは前作のナチュラルシリーズ(リンゴや洋ナシなど)と同様、アート(美術)へのアプローチを容易にすることにあります。絵画など、なかなか手が出にくい美術作品をシルクスクリーンプリントにして扱いやすくしています。そしてモチーフをシンプルな図形やカラーリングにすることで我々の生活に取り入れやすくしているのです。
矢印、星、波、月、キューブとクローバーはいずれも自然や文化と結びついた原型的なシンボルであり、観る者に応じてさまざまな解釈や捉え方ができ、また時間を超越した大切な記憶となるものです。そして、丸みを帯びたエッジはどこか子供が書いたような無垢さも漂わせています。
シンプルかつ普遍的で美しい、いかにもエンツォ・マーリといったスクリーンプリント作品です。様々な空間でご利用下さい。

 

Jean Michel Folon ジャン・ミシェル・フォロン 1934.3.1-2005.10.20

1934 ジャン・ミシェル・フォロン、5月1日、ブリュッセルの近くUccleに生まれる。
1955 デッサンに没頭するため、建築の勉強をやめ、ベルギーを離れる。パリの方向へ出発し、Bougivalで庭師の家に落ち着く。5年間、毎日デッサンする。
1960 作品を見せるがフランスでは興味を持たれず、彼はそれらの作品をニューヨークのいくつかの出版社に送る。Horizon,Esquire,The New Yorkerは彼の作品を出版。アメリカへ渡る。
1964 パリのジャン・ジャック・パンヴェールのLibrarie Le Palimugreで作品が紹介される。
1965イタリアの第3回”芸術のなかのユーモア”トリエンナーレで大賞を受賞する。
1967 Fortune社、Atlantic Monthly社はアメリカで彼の作品を出版。Time誌はその後数年間4度にわたり彼の作品を表紙に採用。彼は度々イタリアを訪れ、作家Giorgio Soaviに出会い、初めての本“Le Message”を手がけることになる。二人はOlivetti社にいくつかのプロジェクトを提案し、Franz KafkaとRay Bradburyの本に挿絵を描くことになる。
1968 ミラノ トリエンナーレ(3年ごとに開催される展覧会)でフランスのパビリオンの壁画に着想し、500個の光を使って、個の壁画に生命をふきこむ。パリのフランスギャラリーに60作品を展示、そしてニューヨーク現代美術館の本を手がける。
1969 ニューヨークのLefebreギャラリーにて初の展覧会。
1970 日本を訪れ、東京、大阪にて展覧会。35回目のヴェネチア ビエンナーレ(2年ごとの展覧会)にベルギーパビリオンで参加。10月、ミラノのMilioneギャラリーにて初のイタリア展覧会。
1971 パリのArts Decoratifs美術館で、90作品による重要な展示会を実現。後にこれらの作品はシャルルロワのPalais des Beaux-Arts、ブリュッセルのArt Moderne美術館、ミラノのCastello Sforzescoで紹介されることとなる。 1972 シカゴアートクラブに出品。
1973 カフカの“La Metamorphose”に挿絵。Alics社は彼の水彩画、そして彼が書いた本“La Mortd’un arbre”を出版。Max Ernstはオリジナルの石版画の本に序文を書く。フォロンはグランプリを授与した12回目のサオパオロ ビエンナーレのベルギー芸術家の一人として選抜される。
1974 Jorge Luis Borgesの“Les Ruines Circulaires”のために10枚のエッチング、アクアチントを製作。ミラノのStudio Marconiで展覧会。ブリュッセルの新しい地下鉄の駅に165?の絵画“Magic City”を製作。
1975 Olivettiの依頼でロンドンのWaterloo駅に2作目の壁画“Paysage”(風景)着手。Alics社は彼が絵を使ってGiorgio Soaviに送った手紙を “Lettres a Giorgio”(ジョルジオへの手紙)に使用し出版。モーリス・デュゴウゾン監督の映画「リリー、私を愛して」に出演。
1976 ロッテルダムのBoymans-van-Beuningen美術館で展覧会、エッセンのDeutsches Plakatmuseumで展覧会。様々な雑誌のカラー表紙を製作。Time誌はその後数年間でそのうちの4枚を採用。
1977 第20回フェスティバル(ポスターを手がける)の一環として、ロンドンとスポレトのコンテンポラリーアート学院で展覧会。
1978 リエージュの現代美術館でMilton Glaserとともに展覧会。Milton Glaserが序文を書いた25点のポスター集「Folon’s Poster」が刊行される。Guillaume Apollinaireの“Alcools et Calligrammes”に挿絵。
1979 Ray Braburyの“火星年代記”、Jacques Prevert全集7巻に挿絵。パリのBerggruenギャラリーで水彩画展覧会。
1980 12枚の水彩画とコラージュのシリーズでBoris Vianの“北京の秋”に挿絵、エッチングとアクアチントの連作でGuy de Maupassantの“L’inutile Beaute”に挿絵。
1981 Michel Soutterの依頼でジュネーブのグランドシアターで上演されるFrank MartinとGiacomo Pucciniの作品のために、劇場の装飾に着手する。ブリュッセルのLa Vie劇場にてIgor Stravinskyの“Histoire du soldat”のスライドを製作。 1982 パリのLa Poste美術館は彼の彫刻画を展示、モントバンのIngres美術館は展覧会を企画。
1983 アトリエでデッサン映画を製作、ニューヨーク、ロサンゼルス、ニューオリンズで短編映画を撮影。
1984 パリのDefenseでポスターの回顧展。Guillaume Apollinaireの詩作品の挿絵を制作。Albert Camusの“ニューヨークの雨”のためにエッチングの連作とアクアチントを製作。アンチーブのピカソ美術館で展覧会。
1985 東京、大阪、鎌倉で開催される回顧展のため再び来日。パリのPorte d’Italieの近くに、14階の高さに及ぶ壁画を製作。11月、ヴェネチアのCorrer美術館で作品を展示。
1986 パリのBlue Shadowのために旅行をテーマにした6枚のエッチングとアクアチントを含む絵画集“Lointains”を製作。木製オブジェの彫刻を開始。
1987 Palladioにより建築されたOlimpico劇場の再開のため、ポスター製作、Vicenza美術館に100枚のポスターを贈与。アルゼンチン、ブエノスアイレスに再び赴き、Bellas Artes美術館で友人のMilton Glaserとともに展覧会。彼らは大学に招かれ、4000人の学生のために講演。パラグアイの国境でイグアスの滝を訪問。この魅惑的な場所をデッサン。ブリュッセルのBotanique美術館で展覧会。
1988 「創世記」をテーマにした、エッチングの連作とアクアチント“A propos de la Creation”を製作。フランス革命200年記念のシンボルを考案。Amnesty Internationalのために、国連の6ヶ国語の公用語で発行されJavier Perez de Cuellarにより序文が書かれた世界人権宣言に挿絵を描く。
1986年に始めた木製オブジェの製作を続け、さらに手を加え、油彩で装飾。
1989 Maurizio Scaparro演出のCarlo Goldoniの喜劇のため、ヴェネチアのGoldoni劇場、ローマのArgentina劇場の装飾を手がける。モナコのPalais des Congresのため、オビュソンにて80平方メートルのタピストリーを製作。フィンランドのL’Affiche a Lahti美術館、トゥールーズのL’Affiche美術館でポスター展覧会。
1990 ニューヨークのメトロポリタン美術館で水彩画と彫刻画の展覧会が企画される。そこで彼の初めてのオブジェも展示。その後、フィレンツェのMarino Marini美術館は水彩画、彫刻画、ポスターを展示。回収した梁を用いて巨大な木の彫刻を製作。様々な種類の材料を用いた舟の製作にとりかかる。
1991 「私たちの地球」というタイトルのもと、環境保護を提起した彫刻画とポスターが集められた展覧会が開催される。ここでフランスの多くの小さな町が紹介されている。自然保護という同じテーマで、イタリアの Societe SnamのためAlberto Meomartiniとともに、興味深いコラボレーションを開始。彼らはともに、アニメーション映画から始まり巨大なポスターで終わるシリーズ作品を実現する。例えばローマのサンピエール広場の500平方メートルの作品。数年間イタリアの街の壁はポスターで覆われた。彼は土や石膏で人物を彫刻し、初めてのブロンズの作品も実現。
1992 オブジェ、彫刻製作を続ける。水彩画シリーズで、H.G.Wellsの“L’Homme visible”に挿絵。南仏のMont-Agelにある礼拝堂のステンドグラスをシャルトルにて製作。
1993 バルセロナのガウディにより建てられた建築物、Pedreraで初めて展示される彫刻物製作に没頭する。Caixa de Catalunyaにより企画された展覧会は水彩画、絵画、彫刻画、と広範囲に選択された。
1994 ニューヨークのMarisa Del Reギャラリーで水彩画と彫刻の展覧会。
1995 静岡、東京の文化村博物館、京都で回顧展。ミラノでNuages Edizioniのため、約12冊のラ・フォンテーヌの寓話詩に挿絵。
1996 ローザンヌのオリンピック博物館で回顧展。ボローニュのMorandi美術館で彼のコレクションでもある80枚の水彩画の展覧会。同美術館のアトリエMorandiに写真作品を贈与。ボローニュの伝統により、12月31日の夜、Maggiore広場で彼の計画により実現された12メートルの高さの織物彫刻が焼かれる。
1997 ベルギーのKnokke-Le Zouteカジノで展覧会。海の前にブロンズ彫刻を設置、潮がさす度に水で覆われた。“海、偉大な彫刻”と名づけられる。フランスのBursyの12世紀の教会のステンドグラスを製作。ブリュッセルのParc Royalに、殺害された子供たちのために、彫刻“メッセンジャー”を建てる。
1998 ミラノ、ローマで巨大な壁の作品を創作。イタリアのピエトラサンタで、6メートルの大理石彫刻を完成。Pise礼拝堂のステンドグラス完成、設置。
1999 アントワープのElzenveldで展覧会。シエンヌでPalioの旗を描く。3メートルのブロンズ彫刻“Voler”をブリュッセルの国際空港に設置。彼の彫刻一式がイタリアのDuomo広場、ピエトラサンタのSant’Agostino教会に置かれる。サロノのIl Chiostroギャラリー、ローマのAndreギャラリーにて展覧会。12月31日夜、ピエトラサンタにて2000年の記念に、彼が彫刻したテラコッタの手に2000本のろうそくが灯された。フォロンはこの夜会を“祈りのとき”と名づける。
2000 サンポールドヴァンスのGuy Pietersギャラリーにて水彩画と彫刻の展覧会。芸術家たちによりフォロン財団が設立され、Domaine Solvay(彼が幼少期を過ごした、ブリュッセルからほど遠くない、ヨーロッパで最も美しいとされる公園のひとつ)で2000年10月27日除幕式が行われる。いつか、彼が保管した数々の作品はこの同じ場所で私たちの目にふれることになるだろう。 2001 10月、フォロン財団設立の1周年記念が祝われる。80000人が14の展示室に展示された300の作品を見に訪れる。フランスのSedieres城で、Aubussonのタピストリーを含む、数々の作品が展示される。ブリュッセルに彼の巨大な彫刻“La ville en marche”が設置される。Chateau Saint Georges公園でブロンズと大理石の彫刻展覧会をリスボン市が企画。Louvaine-la-Neuveの劇場、Aula-Magnadeで創始されたミュージカル、Michel Tournierの“La fugue du Petit-Poucet”の装飾を製作。
2005月10月21日モナコにて死去
「実際のところ、私は、画家でもなければ、デッサン家でも、ポスター作家でも、作家でも、版画家でもない。抽象作家でも、具象作家でもない。私はいかなる流派にも属さない。私には歴史上での重要性などない。私の目的は美術史に名をとどめることではない。私が勝手に作り上げたことなど何ひとつない。私にはすべてのことが人のおかげなのだから。私は自分の作ったイメージを理解していない。けれど、だれもが思うまま、それを自由に理解できる。私はただ、私自身の夢をとどめようと試みてきた。他の人がその人の夢をそこに結びつけることができたらと望み抱きつつ。

 

Andy Warhol アンディ・ウォーホール 1928.8.6-1987.2.22

アメリカの画家、映画製作者。本名 アンドリュー・ウォーホラ Andrew Warhola Jr.。ペンシルベニア州ピッツバーグに生まれ、ニューヨークで没。カーネギー工科大学に学ぶ。 1949年ニューヨークに移り、1950年代には商業デザイナーとして活躍1960年代初め漫画、俳優の写真など大衆的なイメージを採用し、次いでそれらのイメージをシルクスリーンの技法を駆使し繰り返す反絵画・反芸術的な絵画を制作、ポップアートの代表的存在となる。 60年代中頃からアンダーグラウンド映画も制作する。ほかに月刊誌Inter/View(インタヴュー)を発刊、自著にThe Philosophy of Andy Warhol, 1975(アンディ・ウォーホールの哲学)などがある。代表作「100のスープ缶」(1962、バッファロー、オールブライト・ノックス・アート・ギャラリー)など。

 

Pablo Ruiz Picasso パブロ・ピカソ 1881.10.25-1973.4.8

スペインの画家。マラガに生まれ、南フランスのムージャンで没。初め父を師とする。1897年首都マドリードのサン・フェルナンド王立アカデミーに入学したが間もなく退学し、世紀末バルセロナの”モデルニスモ”の運動に身を投じる。 1900年パリでロートレックの影響を強く受け、1901年から「青の時代」を開始。 1904年にはパリの”バトー・ラヴォワール”(洗濯船)に定住、翌年から「バラ色の時代」に入り叙情的な主題を描くが、 1906年から古典主義的傾向に移行する。 1906-07年に20世紀絵画の出発点とされる「アヴィニョンの女たち」を描く。翌年よりブラックとともにキュビズムを創始し、1921年の「三人の音楽師」においてその探求の完結をみる。 1917-24年にコクトーの「バラード」を手はじめにバレエ・リュッスの装置や衣装のデザインに協力。 1937年の「ゲルニカ」(プラド美術館)は最大の傑作の一つである。第二次大戦後は様式や形式にとらわれない自由な制作を続け、マネの「草上の食事」など過去の巨匠たちの絵画を改作した作品をしばしば描く。 1953年以降晩年まで版画や素描を中心に「画家とモデル」のテーマに集中し、版画の「347シリーズ」等多くの作品を生んだ。彼が遺した絵画・素描は膨大な数にのぼるが、彫刻・版画・ポスター・陶芸の作品も多く、各領域に優れた独創性を発揮した。また詩や戯曲などの文学的作品もある。バルセロナと南フランスのアンティーブに個人美術館がある。

 

Ernest Howard Shepard アーネスト・ハワード・シェパー 1879.12.10-1976.3.24

イギリスのイラストレーター。「クマのプーさん」の挿絵で知られる。